越後瞽女唄と津軽三味線 瞽女唄伝承者 萱森直子 

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「ごぜうた」との出会い・越後瞽女唄と津軽三味線

「ごぜうた」を始めたきっかけは?
小林ハルさんとの出会いは?

最も多くよせられるご質問にお答えするためにこのページを作りました

 


出会いは点訳ボランテイアサークル
 「目陽会」という点訳サークルに参加していました。

 先輩たちが点訳した本がおさめられているのをみにゆこう、ということで、会員の研修旅行のような形で「胎内やすらぎの家」を訪れました。
 1985年頃のことです。

 その時たまたま「入所者の人間国宝の小林ハルさんがこれから唄われますのでよかったらどうぞ」と広間に招き入れていただいたのです。

      
 

 

 
瞽女・越後瞽女唄と津軽三味線 瞽女唄伝承者 萱森直子   

これがその時の写真です。
音楽サークルの訪問演奏に対してのお礼というものだったようです。

ほんの10分くらいの短い時間だったと記憶しています。唄の題名も今となってはわかりません。

この方から唄を教えていただくことになるとは思ってもいませんでした。






かわった唄だな・・・と思いました。

発声も、声の上げ下げのもっていきかたも、唄っているその人が発している雰囲気も、それまで自分が経験したことのないものでした。

洋楽はもちろん、民謡や詩吟、長唄小唄などの和楽、それからミュージカルや演劇・・・どんな芸能ともかけはなれたものに感じました。

自分たちにはけして触れることのできないもの。
運命に選ばれた人だけが許された世界・・・・・・。

同時に、「惜しいな・・」と思いました。
こういうものが消えていってしまうのだな、惜しいけれど仕方のないことなのだな、と。

まるで正倉院展を見ているような感じだった・・・と説明した事があります。ただひとつだけ残されたものを遠くからガラス越しに眺めている自分・・・。

それから数年の時を経て、小林ハルさんという人がまだ教える気持ちがあるので相手を探している、と聞いたのです。  「あの時のあの人だ!」と思いました。

 

 

 

目の見えない方から 「音だけで」 習うということは
教科書やマニュアルはありません ひたすら「うたって」いただき、まねをする。

ところが、唄っていただくたびに変化するのです。
       言葉の並び方選び方、旋律、長さ、息継ぎの場所、三味線の手、タイミング・・・
       

それが耳だけで伝承されてきた生きるための芸の奥深さ、すごさなのだと知りました


ハルさんは何をどう唄っても「ようした(よくできた)、よう覚えた」とほめてくださいました
でも本当にそれでいいのかどうかは自分でわかるものです  そこから先が本当のお稽古のはじまりでした

何回もやり直し何年もかけた唄もあります
     「今のお前の唄あの村のあのじいちゃんにきかせたかったな・・・」
     「お前の唄はさずきもん(授かり物)だの。大事に唄えよ」
     「もうちっと若かったらお前と旅したかったもんだの、よかったろうの・・」

ハルさんは本当にほめ上手でした




五感のすべてをつかってハルさんの表情からお考えになっていることをしり、確かめ、さまざまに変化する音の<ゆれ>を自分なりに工夫してかきとめました。

ほかの人が見てもまったくわからないような 自分のためだけの資料がどっさりあります

今、お稽古にこられている方のために、また初めての方にもわかるように、それらの資料の整理をはじめています

でもそれをうつしただけでは、瞽女唄のほんの一面をつかむことしかできません



テレビ、ビデオや教則本をとおしてではなく、人から人へとつながってゆく・・・
        その流れの中に自分がいることを 誇らしく思っています

 

 

 

 
瞽女・越後瞽女唄と津軽三味線 瞽女唄伝承者 萱森直子 

 

お稽古のときはただ芸を吸収する、そのことだけで夢中で後に残す、ということを考えなかったのでハルさんの写真さえほとんど持っていません
今から考えると残念なことをしました

これは私が持っている数少ない写真のうちの1枚。
初めて人様に私の唄うごぜうたをきいていただいたときです
場所はハルさんがお住まいだった胎内やすらぎの家。
ハルさんの姿を初めてみたあのときの、上の写真と同じ部屋です  

演目は 祭文松坂「石堂丸」でした
隣に座ったハルさんがうたいだしをうたってくださり、そのあとを私が唄ったのです

習い始めて1年ほどしかたっていませんでしたので、ただただ「物語を途中できってはならない」「最後までうたいきらなくてはならない」それしか考えていませんでした





 

上手だったはずはないのに、ハルさんは 「ようできた」「よう唄った」と、おおげさなほどにほめてくださいました


いろいろな所でうたわせていただくようになってからは、行く前に必ずハルさんに「今度こういうところへいってきますよ」と報告し、終わってくるとまた「いってきましたよ」と、報告していました
それはハルさんが亡くなるまで続きました

    「上手にうたえたか」
    「声がよく出たか」
    「間違わなかったか」  と、問われたことは1度もありません

いつもきまって   「お客人は喜んでくれなさったか」   それだけを問われました
                        このことが今の私の芸の方向を決定づけました

芸術家になってはいけない。  芸人でいたい。  それが私の願いです

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